専門家会議の議事録がない理由

「専門家会議の議事録がない」ということが、問題になっています。

もちろん、大問題です。

政府は、やっと議事録を作ることにしたようですが、これまでの現政権の公文書に対する意識や考え方、そしてやってきたことが、大問題だと思うのです。

例えば、議事録が必要ないとした理由について、「委員の自由闊達な意見交換が阻害されるから」と言っていましたが、まさに笑止。自らの専門的知見に基づいて責任を持った意見表明ができないのであれば、そもそも専門家会議のメンバーとなる資格はないと思います。当然、今のコロナ対策の専門家会議にも「別に名前を出して議事録をつくってもらって一向にかまわない」というメンバーが多くいます。政府の持ち出した「自由闊達な意見交換ができない」という理由は、専門家の方々に対しても失礼な話です。

また、そもそも議事録そのものの作成についていえば、事務員が録音や速記をもとに文字起こしする形になるのだと思いますが、一度、ドラフトを作成し、各委員に回覧した後、表現の正確性を期すために加筆修正が施されるはずです。この段階で、都合の悪い部分や不適切な表現は、修正されることとなります。そのうえで、所管の役所の稟議を通り公開されるのだとすれば、公開される議事録が「自由闊達な議論」そのものではないわけです。

また、公開についても、公開段階で発言者を匿名にすることや、公開そのものを「一定期間が経ったのち」とするように時間的な制約をつけることも可能でしょう。

ならば、何も「議事録」を作成しない、積極的理由はないではないか?と思う向きもあるかと思います。

しかし、現政権には、「議事録」を作りたくない積極的な理由があると思われます。それは、専門家会議は何のために行われているか、ということに立ち戻って考えなければいけません。

今回のコロナ対策の専門家会議が法律的にどのように位置づけられていて、どのような権限があるのかについては、詳しくないの明言できませんが、おそらく明確な定義はされていないと思います。それは、専門家の一部からも「当初、自分たちの役割が何なのか、戸惑った」という発言からも明らかです。本来であれば、専門家の優れた知見を政策判断の参考にすることが、このような会議には求められるものだと思います。

今回のコロナ禍で言えば、「医療制度の専門家」「感染症の専門家」「経済の専門家」「教育の専門家」などなど各専門家が、それぞれの知見からそれぞれの分野の課題について、現状の分析と対応策を進言し、政治家の役割は、それらの意見を集約して、様々な角度から、コロナの拡大を最小限に抑制しかつ社会生活を維持するためにはどうすればよいのかという課題について、優先順位を定め、いくつかの選択肢に絞り込み、「責任をもって」政策を選択、実行することです。

そこで、現政権が議事録を作りたくない積極的理由に戻りますが、つまるところ、今回の「歴史的緊急事態」において、どのような政策的意思決定が行われたのかということを記録に残したくないというのが、「議事録不作成」の理由です。

今回の安倍政権が行った「学校一斉休校」「布マスク2枚配布」「一律10万円給付」等々の政策決定にあたって、「専門家会議」では議論すらされていないからです。どのように専門的知見を得、どういう根拠で政策を決定したのか、という政策判断の根拠が不明確だからです。何の専門的知見やエビデンスにもとづかず、雰囲気や側近のささやきや利害関係者との力関係などで政策を決定していたのであれば、およそ「国家的緊急事態」には、ふさわしくない政権であることは自明のことでしょう。

国難」とか「国家的危機」などという言葉が大好きな、首相を筆頭とした現政権の面々が、実際に危機を迎えたときに、まったく、まともな手続きも意思決定もできていないということを思うと、3.11発災時に本当にこの政権でなくてよかったと思う限りです。

とはいえ”民度の高い”われわれ国民の骨身に染みついた隷従意識のおかげか、日本のコロナの感染拡大にについては、欧米諸国ほど悲惨な状況にはなっておりません。なぜか理由はわかりませんが、不思議でなりません。現政権が、そのうちに「やはり日本は神の国なのだ」とか「神風は吹く」などと言い出さないことを祈っています。